久し振りの更新(エンジョイフォト写真展報告・楽しみなGRモノクローム)

先日ある飲み会で「先生(空手の指導者だからこう呼ばれます)、最近西都モノクロームの更新が無いので寂しいです」と言われました。

議会での行動はfbで出しているので、再開スタートは大好きな写真の事にします。

まず10月7日から12日まで行った写真展の報告です。

写真展の案内文は・・・

 

エンジョイフォトクラブ

9回写真展    

 

2025.10/7~10/12

写真教室エンジョイフォトクラブの発表展として始まった写真展、写真教室は終了しましたが、その後写真愛好家が集まりエンジョイフォトクラブ写真展として毎年継続しています。

 参加条件は写真を楽しんでいるということだけです、つまり

・撮るを楽しむ・・・写真を撮るのは楽しい行為です

・写真鑑賞を楽しむ・・・写真を鑑賞するのは喜びです

・写真文化を楽しむ・・・写真歴史、写真文化を知る知的喜び

・カメラ機材を楽しむ・・・精緻な写真機は心をくすぐります

他楽しみは人それぞれあると思いますが、写真が好きだという感情を 臆面なく現した仲間たち の写真展です。

 今回参加したメンバーは

ドキュメンタリーフォトフェステイバル宮崎の事務局長として、宮崎の写真文化を牽引してきた永友さん。

写真好きで、ギャラリー付きのレストランを経営していた樋口さん。

 独特な感性でphotoコラージュする濱崎さん

 街中の若者を撮り続けている長田さん。

 先生であり、詩人、そしてライカ愛好家である樺山さん。

 宮崎総合美術展で連続して表彰された紅一点、本田さん。

 リビドーとタナトスの橋口。

 

それぞれの写真好きな仲間たちが、自由に写真を展示しています。

皆個性豊かなメンバーです、視点の違い、感性の異なりを楽しんでいただければと思います。

 

そして鑑賞された後、メンバーと写真話の花が咲けば、幸いです。

                  

2025年10月7日 橋口 登志郎

 

という写真展全体の案内でした。

そして私の作品の紹介は・・・

 

Scenery with mannequins 

(マネキンのある景色)

20年ほど前、車を運転して山陰に行った。

 

鳥取にある、著名な建築家高松伸によって設計された植田正治写真美術館に行くためだった。

 

写真を好きになった時、心惹かれる写真家が何人かいた。

 

日本人では荒木経惟木村伊兵衛、海外ではユージン・スミスロバート・フランクなどである。

 

当時の写真家の中で、市井の写真家でありながら、とびっきりモダンでかっこいい写真を撮る方がいた。

 

その写真家の名前は植田正治

 

鳥取砂丘を背景にし、演出した写真のセンスは他を抜きん出ていた。

 

あの頃はやっていた私写真(これも好きだけど)とは一線を画していた。

 

晩年には彼のセンスが世界的に評価され、ボーグなど超一流のファッション雑誌がこぞって彼に写真を依頼した。

 

写真発祥の地フランスでも「UEDA CHO」と日本表記で呼ばれていた。

 

行ってみると植田正治写真美術館は、雄大で美しい大山の麓にあり、造形美あふれたモダンな建物だった。

 

建物に入り、彼のオリジナルプリント(彼の現像は神話となっている)を見た。

 

その作品群は息をのむような素晴らしいプリントだった。

 

 

さて、いつもスナップやポートレートばかり撮っている私ですが、今回非日常的な写真を撮ることにしました。

 

絵画でいう静物(Steel Life)の、写真版というのかもしれません。

 

被写体はマネキンです、10年ほど前に手に入れた3体ほどのマネキン、それをあえて自然のままに置き、時間の過ぎるに任せて育てたマネキンです。

 

撮っている時の思い、それは植田正治さんの砂丘を舞台にした写真でした。

 

あの、被写体を突き放したような、よそよそしさが生む絶妙な距離感。

 

写真全体を流れる品の良さそして静謐さ。

 

それを意識している自分がいました。

 

絵作りを意識したのではなく、鳥取砂丘にカメラを持って立った植田さんの心に湧き出たであろう感情を意識しようとしました。

 

加えてマネキンという生き物でない対象を撮った時の自分自身の変化も感じたかったのです。

 

さて、あらためて撮った写真を見てみると、植田正治さんの上品さは影も形もなく、私らしくエロスとタナトスを感じる写真でした。

 

撮った対象が感情を持たないマネキンであるので、写真は撮り手の視線、そこから湧き出る感情のみが強く表れた作品となったのです。

 

普段とは違う条件の中では、ちょっとは違う感覚が出て来るかなと期待しましたが、エロスとタナトスが画面から現れるのは定めですね。

 

ということで、私の視線と感情を感じていただければ幸いです。 橋口登志郎

 

PS)世界最初の写真はニエプスが撮った「ル・グラの窓からの眺め」(1827)です、ありのままが写った時のニエプスの驚きと感動を感じ、あまりに簡単に撮れてしまう今を反省しながら、撮り続けていきます。

 

です。

参加メンバーです

作品の展示は裏あてをして、強力磁石で壁面に貼りました。

写真を紹介します。

写真展に展示した作品の一部です。
 さてうれしいニュースが飛び込んできました。














リコーがGRモノクロームを開発中で、来春販売されるかも・・・

というニュース、モノクローム大好きなな私にとって、ビックニュースです。

販売されたら直ぐ買おうと貯金しなきゃ。

 

 

追想の街角へ⑤  

大須は大好きな街角だった。

特に写真、それもスナップ写真にハマってから、撮る場所は名駅裏から大須だった。

昭和がにじみ出ている街角だった

1980年代は、名駅裏には大人の遊楽地だった跡が残っており、少し淫靡で、私はそれを写真に撮った。

名古屋第一日赤病院から大須まで、ディスタゴン28㎜を付けたコンタックスRTSⅡでスナップし、20年前はローライコードのみでスナップした。

今回、40㎜付きのニコンzfだけでスナップしている。

スナップは一本のレンズ、一台のカメラのみが良い。

 

宮崎行きの飛行機の時間が迫ってきた。

大須だけをスナップした。

 

地下鉄で上前津駅まで来た、ここからはひたすら歩き、シャッターを押そう。

久し振りなので、少し土地勘が狂った。

目につくのはポスターばかり。

ここだ、古いまちだが若い方が多い。

何だろう?

この感じが大須

まだあった、約40年近く前もここで写真を撮った記憶が。

暑かったので、中に入った。

昭和の名古屋の喫茶店の雰囲気。

そういえば、大須に来るたび訪れた喫茶店はどうなったんだろう。

「ヘイ、シリ!」とか言っているのかな。

インバウンド、外国の方も大須を楽しんでいた。

大須観音の前には市が並んでいた。

これは昔も今も変わらない。

若いころ、掘り出し物は無いかなとじっくり見た記憶がよみがえってきた。

何も買った記憶は無いけど。

時間は午後三時くらい、もう片付けに入る店が多かった。

門前市は仕舞い始めたけど、商店街には夏休みを楽しむ若者たちが。

少し、商店街を離れてみた。

そういえば、大須に寄席があったけど、無くなっていた(見つけられなかったのかも)

昔、寄席の看板をバックに、スナップポートレートを撮った。

小腹がすいたので、きしめんを食べた。

 

さてセントレアに向かうか。

さすがグッチのポスターはセンスがある。

名鉄で金山に行き、セントレア空港へ。

西日が強くなってきた。

写真は記憶。

 

ボブ・マレー(Bob Marley)が言った言葉がある。

[Some people feel the rain. Other just get wet.]

 

何てことない景色日常を、情景に感じられる気持ちをいつまでも持ちたい。

 

追想の街角へ・・・終。

(カメラ ニコンZf、レンズz40㎜F2.0、RAW撮影、ライトルーム現像)

 

 

追想の街角へ④

帰る前に熱田神宮に行こうと思った。

 

社会人になって2年目の夏、「名古屋市で不動産の会社を立ち上げるから参加してくれないか」と旧友から連絡があった。

その頃は薬品会社の会社員と極真空手道場の指導員をしていた。

そのころ宮崎出身の中村誠さんが世界大会で優勝し、宮崎に凱旋し、道場で稽古をつけていただいたことがある。

ぼこぼこにやられ(でも・・ダウンはしなかった)、その後一緒に飲みに行った。

 

宮崎での仕事も私生活も割と恵まれていたが、転職し名古屋に戻ることにした。

名古屋の住まいが熱田神宮のそばだった。

 

創設した不動産会社は初めから本社+3支店で始め、先に行ったように東別院に配属だったのが、そこにした理由だ。

 


名鉄名古屋駅のロッカーにスーツケースを預け、名鉄熱田神宮へ行った。

久し振りの熱田神宮、この近くに住んでいた時、熱田神宮の周りをランニングするのが日課だった。

境内に入ると、鶏が放し飼いになっていた。

相変わらず大きな神宮だ。

まだ早い時間だったので、人は少なかった。

義理の父母と長女の七五三で来たことを思い出した。

名古屋で過ごしたお正月、全く身動きが取れないほど参拝客がいた。

 

今日は静かだ・・・

空には飛行機雲。

でも、暑くなってきた。

日本刀の展示している館が出来ていた。

そうだ、熱田神宮といえば草薙剣だ。

 

昨年亡くなった父の遺品を片付けるとき、数本の日本刀が出てきた。

父は弓道をやっていたが、晩年居合をやっていたことを思い出した。

県の教育委員会にいき、私に登録しなおした。

 

神宮できしめんを食べ、いよいよ社会人初めてのアパートハイツかめやを探すことにした。

もう40年以上前なので、記憶も薄れているし、街並みも変わっているかもしれないので、無理かなと感じていた。

 

神宮を西側から出て、視覚の記憶を頼った。

なかなか思い出せない・・・。

こっちだったかな?

あっちかな?

と歩くが、記憶にヒットしない。

 

名古屋の夏は暑い、風も吹かず、日陰もない。

体を壊す、諦めよう、きっと別の建物が建っているんだ。

 

地下鉄神宮西の北側、何やら見たような橋。

橋には記憶がある。

ここで無謀な運転手に胸倉を捕まえられたり、冬凍って車が登れなかったり、私は川にかかる橋だと記憶を書き換えていた。

名鉄線路の上にかかる橋だった。

 

もう少し歩こう・・・。

 

あった。

ハイツ加免屋

2階の端部屋が私の部屋だった。

この階段だ。

 

近所を回ってみたけど、思い出すものは無かった。

あの頃週末はオールナイトでやっている古い映画館(稀にストリップもやっていた)が近くにあったけど、やはりもうない。

 

飛行場に行くにはまだ時間がある。

大好きだった大須に行こう。

この駅を使って通勤していた。

古い駅だけど、フォトジェニック。

 

⑤に続く

追想の街角へ③

メゾンかりは想像していたよりきれいだった。

外装をやり直したのかもしれないけど、住んでから40年以上たっていることを思うと驚きである。

 

ただ、雁道は時代の流れに乗らなかったように、昔の街並みを残していた。

まだ時間はある、少し彷徨することにした。

二人でよく食べに行ったラーメン屋、比那屋さん。

東に延びる道。

八事(塩釜口)まで自転車で通った。

途中に妻が高校時代を過ごした瑞陵高校があり、さらに進むと、春には桜の咲き誇る山崎川、そこから八事まで坂を登り自転車で通った。

山崎川にかかる石川橋あたりは凄く良いところだった。

 

雁道商店街、今は閉まっている店が多い。

印象に残るお店の名前、40年前もあったような気が・・・。

賑やかだったころの写真を張っている家があった。

今と比べる。

茶店のメッカ、名古屋市

夕日がきつくなってきた。

ホテルに向かうことにした。

歩いてきた道を引き返し、名鉄堀田駅に向かう。

バス停の看板①

バス停の看板②

思わず写真を撮ってしまった。

都市高速の高架。

夕方近くとはいえ、まだまだ暑いなかを結構歩いたので、色々なことが頭に浮かぶ。

 

深夜に、スピードの出し過ぎでこの橋げたにぶつかって亡くなった若者がいた。

あれからだいぶたつけど、ぶつかった音は今でも記憶する。

ブラザーの本社が見える。

そういえば、ブラザーに伊藤さんというパワーリフティングの名選手がいた。

そういえば、保険請求であまり評判の良くなかった噂の病院があった。

浮かんでは消え、浮かんでは消え、そんなおぼろげな記憶を楽しむ。

 

やっと駅に着いた。

この辺りは工場が多く、労働者のまちだった。

駅前には結構な数の飲み屋さんがある。

仕事帰りに一杯ひっかけたんだろう。

名鉄は名古屋では最大の私鉄。

でも、あまり乗った記憶がない。

今日の宿泊は名古屋駅前。

名古屋駅前の変貌には驚きである。

昔の土地勘が通じない。

スマホの地図を見るのはどちらかというと、苦手だ。

 

一杯飲んで、

寝るとしよう。

 

④に続く

 

追想の街角へ②

昭和区富士見町が下宿の住所。

その昔、ここから(少し高台)富士山が見えることもあったときいた。

 

大学時代は空手部の稽古、授業、アルバイトで一日が過ぎた。

お金がない上に、育ち盛りでやたらと腹がすく。

食事付きのアルバイト、そして日払いがうれしかった。

八事という町がある。

中京大学があるところだ。

アルバイトの一つが八事に会った定食屋だった。

その店はもう見当たらなかった。

 

あの頃の八事にはのちにイオンとなる、ジャスコがあり、八事山興正寺があり、飲食店もそこそこあった。

入学時、八事に地下鉄はまだ通っていなかった。

名古屋駅からは55番線の市バスか、東山線の本山からという不便さだったけど、二年後に地下鉄が開通し、便利になった。

 

そんなことを思いながら

八事霊園から八事まで歩いた。

 

裏道は昔の面影が残っていた。

八事は八方からの坂の底。

当然だけど、学生時代とはだいぶ変わっていた。

 

結婚して最初に住んだのは、瑞穂区雁道というところ。

ちょっと、柄の良くない、下町だった気がする。

 

八事から、そこに向かった。

名城線で堀田まで。

 

堀田から歩いて雁道。

 

暑い、堀田駅から雁道は広々としたまっすぐな道路。

上は都市高速3号線。

名鉄堀田駅は改装中。

この辺りも昔からの家並みがあるところだ。

 

あの頃、自転車を買って通勤していた。

会社は栄、東別院、本山、八事に支店があった。

その時の勤務は東別院。

東別院に近いから、瑞穂区に住んだのだけど、八事に転勤になり、自転車で通った。

 

暑い、汗がとどめなく流れる。

 

雁道商店街についた、昔とあまり変わっていない。

庶民向けの商店街。

そして・・・

まだあった、メゾンかり。

この二階の角部屋が新居だった。

2DKの部屋で朝陽の良く入る部屋だった。

はじめての朝のこと、よく覚えている。

 

40年前は一階は喫茶店で、二人で珈琲を飲んだ。

ここに住んだのは二年ほどだった。

 

③に続く

 

 

追想の街角へ ①

長野市で空手の大会があり、チームの監督として行く。

保護者が名古屋からレンタカーで行きましょうと提案してきた。

時期はお盆。

大会後に名古屋での時間をもらった。

名古屋には久しぶりに行く。

義父母のお墓詣りをすることにした。

まずは名古屋はセントレア空港へ。

長野に行き、チーム監督をし。

そしてまた名古屋に戻った。

選手保護者とはお昼ご飯を一緒に食べ、その後、別れることにした。

名古屋の名物「味噌煮込みうどん」を選択し、妻の実家の近くの大久手の山本屋へ。

私がいたときは、道路状況がだいぶ変わっており、全くわからずナビに頼るしかなかった。

市街地まで高速道が伸びており、中道という100m道路の東側に出た。

その近くに、大学時代少しの期間、通ったジムがあった。

まだ18歳の私は「技は力の中にあり」という言葉を信じていた。

でも、下宿から遠くお金もなく、しばらくしてやめてしまった。

ただ異常にベンチプレスの強い方がいたのを覚えている。

山本屋はジムのすぐ隣だった。

名古屋の名物の中でこれが一番好きだ。

 

南空会というのは、南山大学空手道部のOB会の名称だった。

それを使わさせていただいているのだ。

保護者たちと別れる前に、南山大学を見せた。

 

義理の父母が眠っている八事霊園は大学の近くにある。

南山大学名古屋大学日本福祉大学中京大学名城大学に囲まれるように霊園はある。

ここで保護者と別れて、一人となった。

霊園は広く、父母のお墓を探すのに苦労した。

その日の気温は39度。

妻とメールのやり取りしながら、探す。

何度か同じところを行き来し、やっとたどり着いた。

夏草が生えていた。

道具を持ってなかったので、素手でで取り除き、掃除をした。

義父母の事を思い出しながら、手を合わせた。

 

あまりに暑く、霊園にある茶屋に行き、かき氷を食べた。

 

そうだ、社会人独身時代、新婚時代に住んだあたりに行こう。

暑くて、ぼーっとした頭で思った。

 

②に続く

初盆他

父の初盆に妹と次女と孫が帰ってきました。

父を迎える前に、お墓詣り。きれいに掃除しました。

初盆の神事

神事が終了したら、迎え火。

お父さんゆっくりしてください

折角、西都に帰ってきたので、夕ご飯は西都の名店入船。

みんな、満足しました。

その間も稽古ががあります。

先輩が後輩に指導。

指導することで先輩も学びなおします。

前屈立の稽古

たっぷり西都を満喫して、次女孫は帰っていきました。

叔父さんに手を引かれて・・。

空港名物、お別れの電話。

楽しかったよ、ありがとう。

グーグルカレンダーを見ると、予定がない日が・・

映画を観に行きました。

今評判高い「国宝」です。

三時間におよぶ上映時間ですが、一時もだれる所がなかった。

私は稽古場面に注目しました。

それは空手の形の指導と通じる所がすごくあったからです。

肩甲骨の締め、正中線、姿勢・・・などなど。

興味深く、歌舞伎を見てみたいなと思いました。

ナイトショーだったので、終わりは夜でした。

 

そういえば空港では、とても素敵な絵画展が・・。

凄く良かった

妻北地域つくりでは、笑いたっぷりの講演がありました。すごく面白かった。